バンコク学生日報

バンコクに一年間留学している大学4年生。バンコクでの生活、旅行記、タマサート留学生とバックパッカーにむけた旅情報などをゆるく書いていきます。

プノンペンのポル・ポト負の遺産をめぐる

チョムリアップスオ!

 

カンボジア第2弾は、首都プノンペンについてです。

カンボジアといえば、シェムリアップのアンコール遺跡があまりに有名です。カンボジアを訪れる旅行者の100%に近い人がシェムリアップを訪れるのではないでしょうか。

 

僕もシェムリアップでアンコール遺跡たちに圧倒されたんですが、あえてここで紹介したいのは、プノンペン

近代以降のカンボジアの首都であるとともに、たった40年前に起きたクメール・ルージュによる大虐殺の中心地です。

ここではシェムリアップとはかなり違ったカンボジアの一面がみられました。

プノンペンの歴史

アンコール遺跡があることからもわかるように、もともと繁栄を極めたクメール王朝の中心はシェムリアップのあるカンボジア西部にありました。

しかし、1431年、タイのアユタヤ王朝との戦いの敗北によって、王朝は陥落。

首都もどんどん東に追いやられ、プノンペンに遷都が行われたのは1866年フランス領インドシナの保護のもとで王宮が作られて遷都が行われ、それ以来カンボジアの首都であり続けています。

今回の話題になるクメール・ルージュは、腐敗していたアメリカ支援のカンボジア共和国を倒し1975年プノンペンを占領しました。

それ以降4年間に渡って、独自の社会主義思想に基づきカンボジア国内で100万人以上(人数は諸説あるそう)を殺戮していったのです。

フランスによる支配以降、カンボジアは第2次世界大戦やベトナム戦争に巻き込まれていきました。この大虐殺はそうした極めて複雑な歴史の中で出てきたものだと思います。僕も歴史的背景については理解し切れていませんが、見たことを書いていきます。

クメール・ルージュの思想

毛沢東思想の影響

ポル・ポトが率いるクメール・ルージュは、フランスによる保護国化以降流入してきた西洋の文化や科学を否定し、毛沢東の農村社会主義に影響を受けた原始共産主義を掲げました。

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ポルポトの思想が影響を受けた毛沢東についての説明がトゥールスレン博物館にありました。

説明によると、毛沢東農村社会主義思想は1970年代スウェーデンの毛思想主義者から支援を受けていたそうです。ソ連と異なる道を歩み、知識階級を否定した毛の文化大革命に希望を抱く人は一定数いた、というお話です。

原始共産主義

一方で、原始共産主義完全な共産主義社会の成立を目指しました。つまり理想は狩猟採取を行っていた原始時代ということになります。ここでは科学や宗教、貨幣の価値などが否定され、都市で生活していた市民はすべて農村に強制移住させられることになります。知識は人に格差をもたらす、と考えられ、教授や弁護士など、すべての知識人を殺そうとしていきました。無茶苦茶ですね。

ポルポトは単に快楽殺人をしていたのではなく、この原始共産主義という無茶苦茶な思想が虐殺の原因といえます。

トゥールスレン虐殺博物館

トゥールスレン収容所は、S21とも呼ばれ、カンボジア人の囚人が収められた収容所になります。現在は虐殺博物館として公開されています。

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この敷地はもともと高校の校舎であり、それをクメール・ルージュプノンペン占領以降、収容所として利用したそうです。

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ここにはクメール・ルージュの思想に反対する人や、その疑いのある人、また反乱の恐れがある教師や法律家などの知識人が投獄されました。

一度ここに収容されると、囚人番号が与えられて一切の個性を消され、さまざまな拷問が行われました。

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 拷問が行われた部屋です。

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行われた拷問の一つの模型展示です。このように手を縛られて長時間吊り上げられ、気を失ったら糞尿で満たされた甕に頭をぶち込まれて意識を取り戻させたとのことです。

想像したくもないですね。

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 拷問の際には、「聞かれた質問には適切に答える」「拷問中泣いてはいけない」といった理不尽な規則があり、規則を破った際は電気ムチで引っぱたかれるとされています。

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ベトナム軍によってプノンペンクメール・ルージュから解放された後、敷地内には何人かの遺体が残されていました。これはその墓です。

 

僕は日本語の音声ガイドを聞きながら敷地内を周りました。

途中でかなり気分が重くなり、何度か椅子に座って休憩して回復してからでないと見続けられませんでした。

チュンエクキリングフィールド

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プノンペンにあるキリングフィールドにも足を運びました。

キリングフィールドとは、カンボジア国内に数十か所ある、クメール・ルージュによる大量殺戮の現場であり、殺された人々が埋められた墓場でもあります。

プノンペンのチュンエクキリングフィールドは、カンボジア内で最大のもので、総計17,000人が殺されたと言われています。

キリングフィールドへは、プノンペン市内から15キロほどあり、トゥクトゥクなどをチャーターして行くことが出来ます。僕は自転車をこいで行きました。

 

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囚人の多くは前述したトゥールスレン収容所から運ばれてきて、小屋にまとめて収容させられました。私語等は禁止です。ここに入ったら最後、生きて帰ることはできません。

 

ここで殺戮された囚人はすべてこの地に埋められました。

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埋められた人骨が掘られた跡がたくさん残っています。

クメール・ルージュが敗北し、一般農民によってこの地が発見された際、腐敗臭でひどい臭いになっており、発酵したガスで地面がでこぼこになっていたと説明がありました。

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 クメール・ルージュの撤退後に作られた記念塔です。

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なかにはおびただしい数の犠牲者のドクロが安置してあります。ひとつひとつのドクロに解析された死因の印もつけられています。これだけあってもすべてではありません。

カンボジアのその後の影響

こうした大量虐殺カンボジア人では知識層がほとんど殺されたために、国の再建はかなり遅れることとなったと言われています。

また、ベトナム戦争期にアメリカ軍によってばらまかれた大量の不発弾や、カンボジア内戦期に敷かれた地雷が数百万個単位で残っており、戦後も多くの犠牲者を出しています。

プノンペンにはバンコクと違うどこか鬱蒼とした雰囲気が漂っているような感じがしましたが、たったの40年前に起きた出来事からまだ国民の傷が癒えていないのかもしれません。

さいごに

ベルリンのザクセンハウゼン強制収容所や、南京の大虐殺記念館にも行きましたが、何度も繰り返される虐殺の歴史に無力感を感じました。

誤解を生むかもしれないし、勉強不足な僕が既に誤解しているかもしれませんが、虐殺の根本的な原因は、強すぎる「正義」にあるのではないかと思います。

「正義」というか、自身の正しさの基準を持つことはすべての人にとって必要なことです。ですが、人間は完璧ではありません。ただ一直線に前を見て、脇にあるものをすべて無視して突き進んだ結果が多くの人にとって「正義」になりうるでしょうか。

時として「正義」は、自らをよりよく高めていきたいという意思であるかもしれないし、なにか脅威に感じるものに対抗する意思であるかもしれません。

ただ、そうした「正義」が、国内外からの激しい圧力他勢力との緊張関係のもとで成長し、強すぎる「正義」を生み出し、反抗すべき敵を作り出し、虐殺する結果につながってしまったと言えます。

自己の正しさを過信し、他の価値観に価値はないと盲信することが、虐殺を導いたと思うのです。これはすべての国の指導者が知るべきことだと思います。

 

そして、たった40年前にも起きたことが、今後二度と起きないとは限りません。というか、実際ルワンダで起きた虐殺はたった20年前の話ですし、現在のシリアやイスラム国の勢力範囲でも虐殺が行われています。

大国同士のぶつかり合いの影響によって歪められた周辺で、さまざまな問題が起きています。

そういう意味では、原始共産主義、というのは理想的に思えてきませんか。貧富の差も争いもない、協力的に分配を社会です。僕がクメール・ルージュの指導者の凶悪的な虐殺行為を許せる、というわけでは断じてないですが、彼らも一度は同じようなことで悩んだのだと思うのです。

 

40年前に起きたカンボジアの悲しい歴史に触れて、虐殺をより身近に感じるようになりました。